東日本大震災

更新日:2019年6月6日

東日本大震災は2011年3月に発生した震災です。日本における過去最大の地震として知られています。なお、地震だけを指し示す場合は「東北地方太平洋沖地震」と表記されることもあります。そんな東日本大震災の震源地や被害規模などといったデータをご紹介しているほか、実際に被災された方の体験談もご覧頂けます。

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発生日時 2011年3月11日 14時46分18.1秒
マグニチュード 9.0
最大震度 7
震源地 三陸沖(仙台市の東方70km)
震源の深さ 24km
津波の有無 9.3m以上(相馬港)
40.1m(綾里湾)
被害の規模 死者15,883名 行方不明者2,656名 負傷者6,145名 被害総額16~25兆円
各種公式資料 こちら
震源地周辺地図

体験談

●●私は東日本大震災が起きた際、茨城県の内陸部におりました。内陸部といえども震災の影響は非常に大きいものでした。まず、ライフラインが全て止まりました。例えば、電気やガスが止まり、そして水道も出なくなりました。

私の自宅では緊急用の装備は用意はしていましたが、復旧までなんと2週間かかりました。用意していた緊急用の装備は3日で消化してしまい、配給や遠出して食料を確保するしかありませんでした。

このような大震災が再び来た場合のために、緊急用の装備を強化するだけでなく、ライフラインが止まった場合の対策も考える必要があるなと思わされました。また、家が潰れないとも限りませんので、避難経路も把握しておくようにしました。

●●東日本大震災は誰でも記憶に新しいかと思います。未だ完全復興されておらず、大変な思いをされている方がたくさんいらっしゃいます。私は関東在住で甚大な被害はなかったのですが、それでもかなり揺れたのでとても怖い思いをしました。

地震が起こった日の夜、都心は帰宅難民者が溢れていました。そのため、今は会社にはスニーカーを置いているほか、普段はコンタクトを使っていますが、メガネも持ち歩くようになりました。また、携帯の充電にも気を配るようになり、こちらも替えの充電池をいつもの鞄の中に準備しています。

震災後しばらくすると、スーパーやコンビニから品物がなくなり、トイレットペーパーや子供の紙おむつなどが品薄になりました。そのため、今は自宅に少し余裕があるくらいのストックを準備しています。

あの年には計画停電も実施されたので、それからは電池やろうそく、ガスボンベも一通り揃えてあります。避難グッズや非常食もしっかりチェックしてあります。

公共施設では耐震も見直され、実際、幼稚園の園舎が建替えになったところが近所に2件あり、小学校でも体育館に工事が入りました。習い事先でも半年に1度のペースで避難訓練を実施しています。

このように、日々自分で心がけることがたくさんありますが、これは東日本大震災を体験した教訓です。地震大国と言われる日本ですから、これからもいつどこで地震が起こるか分かりません。できることはやっておきたいと思います。

●●今でもあの恐ろしさは忘れられません。仕事の都合で東京に出張に行くことになりました。結婚二年目だった新婚の私は、妻も東京に連れて行きました。その当時、妻は妊娠していて専業主婦でした。

いつものように、妻に玄関まで見送ってもらい会社へ行きました。昼休みには愛妻弁当を食べ、妻と少しメールをして仕事に戻りました。

仕事を始めて何時間が経ちました。工事の揺れかと思った瞬間、あれよあれよと会社のデスク、棚の書類が全て床に散らばりました。周りの人たちもパニック状態で、自分も一瞬の事で机につかまり、女性の悲鳴なども聞こえてきました。今まで味わった地震とは比べ物にならないものでした。

揺れがおさまってから同僚と窓の外を見ていたら、街がパニック状態。すぐ携帯で妻に連絡しようとするがつながらない。変な妄想ばかり広がります。私はすぐ家に帰ることにしましたが、駅には人だかりができ、みんな歩いています。

私が家に帰りついたには5時間後でした。家は無事でした。すぐに鍵を開けて家に入ったら、泣きじゃくる妻がいました。今でもあの日を忘れられません。

●●2011年の東日本大震災は未だ記憶に新しいところです。幸いにも私が住んでいた地域は大した被害ではありませんでしたが、それでも震度5~6という、今まで体験したことのない揺れを経験して、焦りました。

親戚の家は壁にヒビが入り、我が家の家具もいくつか壊れてしまい、「何かを破壊する地震」というものを人生で最も身近で目撃したなどと言ったら、大袈裟でしょうか。ただ、物が壊れるくらいならまだいいほうだと、そう思わずにはいられません。

私は祖母と同居しているのですが、団地住まいなので階段を下りて行かなければ逃げられません。もしも建物が倒壊する程の地震だったならば、足腰が弱い為に素早く動けない祖母を抱えた私は共に逃げ切れたでしょうか。

置き去りにして身一つで逃げるしか生き残れない状況になったら…などと、想像もしたくない事を考えてしまう日もありました。自身にとって実際の被害こそ軽微ではありましたが、それでも実体験というのは強烈な印象を植えつけられます。あれ以上の被害を被るのはとても恐ろしいです。

日頃から対策を色々と考えてみていますが、いずれも完璧と思えるまでには至りません。もっと大きな視点、つまり住む場所や建物から考えていかなければ、より大きな地震には耐えられないのではないかと切に思います。

●●愛知県に住んでいて、東日本大震災の直接の被害を受けたわけではありませんが、かなりの間接的な被害を被りました。地震直後、夜勤ありの仕事をしており、会社に行こうとして車を走らせていたのですが、ラジオではなくCDを聞いていました。途中、なにやら渋滞の様子がおかしく、何があったのか分かりませんでした。

道路と並行して東海道本線の鉄道があり、貨物列車がものすごく遅い速度で運行していましたので、何かあったのかと思い、ラジオに切り替えました。そこで初めて地震があったのだと気づきました。

その後、仕事先も製造に使う材料の調達ができず、会社が休みになったり、たいしたことではありませんが色々と普段と違った生活を余儀なくされました。この一軒からは地震に対する意識も変わりまして、防災対策用の手回し発電ラジオを購入したり、防災関連の非常用品を買い揃える様になりました。

●●先の大震災からあまり日が経っていない時期に、静岡県辺りが震源の地震がありました。笑われると思いますが、私が住んでいる地域の震度は3。

それでも、東海地震で甚大な被害が出ると言われている地域なだけに「人生が終わりかも…」とも思いました。加えて、不思議と震度2程度の地震しかそれまでは経験をしたことがなかったので、あれほどの揺れでも、ただただ恐怖でした。

次の日に早速、避難袋の用意をしました。すぐに安全に避難ができるように靴もベットの下に確保しました。今でも季節に応じて着替えの入れ替えや飲料水の期限の確認も行っています。まだまだ足りない物だらけですが…。

今では地震がキッカケで市が運営している外国人の方向けの災害時の通訳ボランティアにも登録しており、機会がある毎に訓練を受けています。災害がないことに越したことはありませんが、万が一の時のための準備に備えています。

あの時の地震は本当に怖かったですが、経験しなかったら恐らく何も対処していない自分がいたはずです。なので、感謝はできませんが、いつ起きてもおかしくない災害に気づいたという、この事実だけは得たものだと思っています。

●●2011年3月11日の東日本大震災が発生した時、私自宅にいました。今までの人生であれほど強い揺れを経験したことは無かったので、これは最悪の結果になる大事件に今まさに巻き込まれてしまっているのではないかという恐怖を感じ、正直、死というものすら頭をよぎりました。

幸いなことにしばらくすると揺れは収まり、家財が多少移動していたり、細かなモノが崩れたり、本棚の本が床に落ちて散乱していたりということはありましたが、私自身はかすり傷一つ無く五体満足な状態で乗り切ることができました。

それでも、マンションに住んでいるので外の無機的な警報音がしばらく鳴りっぱなしだったり、家の外では人々が大声で安否確認をしたりで騒がしく、テレビをつければどの局も緊急生中継で東京の街並みをヘリコプターで空撮していて都内何か所から煙が上がっているのが確認できたりしました。

揺れが起きている間は恐怖心でそれどころではなかったのですが、少し落ち着いてから、「これはただ事ではないんだな」「大変な事になった」という何ともいえない焦燥感と不安で胸がドキドキしていたのを今でも鮮明に覚えています。

この感覚は、2001年の9月11日にアメリカのニューヨークでテロリストにハイジャックされた飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだ全米同時多発テロを生中継でたまたま見ていた時の感覚に非常に近かったのが印象的でした。

結果的には日本の歴史上、他に例をみない程の大惨事となったわけですが、私個人のことを言えば、幸運にも家族や友人や知人で犠牲になった人はなく、今までと変わらない生活を送ることができています。

●●東日本大震災が起きたときに何が起こったのかわかりませんでした。丁度買い物をしていたのですが、店の電気が消えて静かになってしまったので、恐ろしさを感じました。長い地震が起きたことは分かりますが、その後のできごとは初めてだったのですごく怖かったです。

携帯電話を開いても発信ができず、どうしたらいいか考えて、子供のいる小学校に向かいました。子供は小学生と中学生なのですが、小さい子供のほうが不安だろうと思いまして車を走らせました。車で走っている途中も余震にあいまして、足が震えてきました。

止まったときに携帯電話が繋がって、主人と話ができたので、主人には中学校に向かうようにお願いをしました。小学校の体育館に全校生徒が集められていました。子供の安全がわかってとりあえず安心しましたが、いつまでこの状況が続くかということに不安を感じました。

一戸建ての自宅に戻っても電気はついていません。テレビがないので何が起きたのか全くわかりません。ふと思って携帯電話のテレビを見たのですが、地震があったという情報だけ。後に充電が切れてしまい携帯電話も使えなくなってしまいました。

東北でも津波の被害がない場所に住んでいるのですが、普段から地震が起きたらどうするか家族で話し合っておくといいと思いました。そしてしばらく食べれるように食べ物の確保を普段からしておくこと、水の準備など地震に備えをしておくことで安心ができると思います。

●●3月11日の大震災は本当に衝撃的なでき事でした。横浜に住む40歳の私は、幼き頃より関東大震災がそろそろ来るぞと脅かされながら育ってきたのですが、幸いなことに関東ではあまり大きな地震は起こっていません。

当日も自宅(戸建)にいましたが、地盤が固いおかげで、倒れたものもなくはじめは目眩がしているのかと思った程度でした。

小学校に通っている子供たちを迎えに行くべきか迷いましたが迎えにいき、帰ってテレビに映る東北の津波の映像に驚きました。主人の実家が仙台なのです。東京の会社にいる主人の携帯に連絡しましたが、もちろん通じません。災害メールでようやく6時すぎに連絡が取れました。仙台の実家も無事とのこと。

5時過ぎに出先から会社に戻り、固定電話から電話したら、なんと1発で出たらしいのです。停電はしているものの電話線につながっていたので、呼び出し音はかすかに聞こえる程度でしたが、たまたま近くにいて気がついたらしいのです。昔ながらのあまり機能のない電話機だったのがよかったのでしょう。

主人は会社に待機して帰らないものの、皆の無事が確認できたので安心できました。やはり動揺せずに冷静な行動をとるには、早急に家族の無事を確認できるそんな態勢が不可欠だと思いました。

●●強烈に記憶に残っている地震のイメージと言いますと、やはり2011年3月11日に発生した東日本大震災になります。あの日私はたまたま仕事が休みで自宅にいたのですが、共働きということもあって、妻は仕事で出ておりました。

地震発生時と発生直後は、自分の身の安全と火の元の確認など、自分の身の回りのことに頭がいっぱいなわけですが、揺れも収まり状況が飲み込めてくると、仕事に出ている妻の事がとても心配になりました。

すぐさま携帯に電話をしましたが、アクセスが集中しているのか携帯電話会社のインフラがシステムダウンしているのかはわかりませんでしたが繋がりません。

妻の職場は自宅から自転車で行こうと思えば無理なく行ける距離にありましたので、行ってしまおうかとも思ったのですが、避難などをして出会えなかったり、妻が急遽帰宅して家にいるはずの私が逆にいなかったりしたら、行き違いになってますます事態が混乱してしまうと思ったので、どうしようか悩んでいるうちに公衆電話で妻から自宅の電話に電話があり、無事が確認できホッと胸をなでおろしました。

幸いにも妻も私もスマートフォンを使っており、インターネットなどからTwitterなどは生きているという情報を得ていたので、公衆電話で電話をくれた際にTwitterで連絡を取り合おうと確認し、その後妻が帰宅するまではTwitterなどのWebサービスを使って連絡を取り合いました。

しかしながら、さほど遠くないところに住んでいる両親とは携帯電話が使えるようになるまでは結局連絡がつかず、心配しました。

年老いた親の世代にスマートフォンを持たせ、Twitterを教え込むというのはなかなか難しい面もありますが、防災という点では多少苦労しても頑張ってもらって最新の情報技術を最低限使えるようになって貰わないといけないと感じました。

●●日本は地震国ですから、いつ地震があってもおかしくないし、実際、此れまでにも幾度となく地震には遭遇してきている訳です。しかし、盛岡市で東日本大震災に遭い、この時はもう家がつぶれると思いました。

しっかりと目に見えて揺れるのです。どれぐらい横に揺れたかというのが分かるのです。大きくガタガタと揺れ始めた時には観念して、それでも少し揺れが収まったときに、家にいる御婆ちゃんと一緒に外にでました。外に出ると、ご近所の方も出ていたので一緒に一箇所に固まっていました。

学校から帰ってきたお隣の子供さんたちは、家が停電になってしまいキーがあけられない状態になって、我が家のトイレを借りてから、近くの親戚の家へ行きました。

幸い、あまり被害はなかったのですが、キレイに重ねた収納していた食器は本当に何事もなかったようにそのままの状態で、不安定なつくりの食器は3枚割れていました。食器棚や本棚やタンスといったものは、全て倒れないようにツッカエをしてありましたから、大丈夫でした。

あと、電気の復旧が遅かったですから、実際にどんなことが起きているのかは分かりませんでした。携帯ラジオからの情報だけが頼りになりました。

ストーブは灯油ストーブで反射型のカートリッジ式があり、電気を使わなくとも使用できたので、本当に捨てずに置いてよかったと思いました。しばらくは余震が続きましたから、二階の部屋で寝るのが怖くて、一回の居間で皆で寝て暮らしました。

なお、東日本大震災で非常に怖い経験をした後、またいつ大きな地震があるか分かりませんので、地震保険と火災保険に新たに入りました。

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