東日本大震災

更新日:2019年4月1日

東日本大震災は2011年3月に発生した震災です。日本における過去最大の地震として知られています。なお、地震だけを指し示す場合は「東北地方太平洋沖地震」と表記されることもあります。そんな東日本大震災の震源地や被害規模などといったデータをご紹介しているほか、実際に被災された方の体験談もご覧頂けます。

発生日時 2011年3月11日 14時46分18.1秒
マグニチュード 9.0
最大震度 7
震源地 三陸沖(仙台市の東方70km)
震源の深さ 24km
津波の有無 9.3m以上(相馬港)
40.1m(綾里湾)
被害の規模 死者15,883名 行方不明者2,656名 負傷者6,145名 被害総額16~25兆円
各種公式資料 こちら
震源地周辺地図

体験談

●●私は東日本大震災が起きた際、茨城県の内陸部におりました。内陸部といえども震災の影響は非常に大きいものでした。まず、ライフラインが全て止まりました。例えば、電気やガスが止まり、そして水道も出なくなりました。

私の自宅では緊急用の装備は用意はしていましたが、復旧までなんと2週間かかりました。用意していた緊急用の装備は3日で消化してしまい、配給や遠出して食料を確保するしかありませんでした。

このような大震災が再び来た場合のために、緊急用の装備を強化するだけでなく、ライフラインが止まった場合の対策も考える必要があるなと思わされました。また、家が潰れないとも限りませんので、避難経路も把握しておくようにしました。

●●東日本大震災は誰でも記憶に新しいかと思います。未だ完全復興されておらず、大変な思いをされている方がたくさんいらっしゃいます。私は関東在住で甚大な被害はなかったのですが、それでもかなり揺れたのでとても怖い思いをしました。

地震が起こった日の夜、都心は帰宅難民者が溢れていました。そのため、今は会社にはスニーカーを置いているほか、普段はコンタクトを使っていますが、メガネも持ち歩くようになりました。また、携帯の充電にも気を配るようになり、こちらも替えの充電池をいつもの鞄の中に準備しています。

震災後しばらくすると、スーパーやコンビニから品物がなくなり、トイレットペーパーや子供の紙おむつなどが品薄になりました。そのため、今は自宅に少し余裕があるくらいのストックを準備しています。

あの年には計画停電も実施されたので、それからは電池やろうそく、ガスボンベも一通り揃えてあります。避難グッズや非常食もしっかりチェックしてあります。

公共施設では耐震も見直され、実際、幼稚園の園舎が建替えになったところが近所に2件あり、小学校でも体育館に工事が入りました。習い事先でも半年に1度のペースで避難訓練を実施しています。

このように、日々自分で心がけることがたくさんありますが、これは東日本大震災を体験した教訓です。地震大国と言われる日本ですから、これからもいつどこで地震が起こるか分かりません。できることはやっておきたいと思います。

●●今でもあの恐ろしさは忘れられません。仕事の都合で東京に出張に行くことになりました。結婚二年目だった新婚の私は、妻も東京に連れて行きました。その当時、妻は妊娠していて専業主婦でした。

いつものように、妻に玄関まで見送ってもらい会社へ行きました。昼休みには愛妻弁当を食べ、妻と少しメールをして仕事に戻りました。

仕事を始めて何時間が経ちました。工事の揺れかと思った瞬間、あれよあれよと会社のデスク、棚の書類が全て床に散らばりました。周りの人たちもパニック状態で、自分も一瞬の事で机につかまり、女性の悲鳴なども聞こえてきました。今まで味わった地震とは比べ物にならないものでした。

揺れがおさまってから同僚と窓の外を見ていたら、街がパニック状態。すぐ携帯で妻に連絡しようとするがつながらない。変な妄想ばかり広がります。私はすぐ家に帰ることにしましたが、駅には人だかりができ、みんな歩いています。

私が家に帰りついたには5時間後でした。家は無事でした。すぐに鍵を開けて家に入ったら、泣きじゃくる妻がいました。今でもあの日を忘れられません。

●●2011年の東日本大震災は未だ記憶に新しいところです。幸いにも私が住んでいた地域は大した被害ではありませんでしたが、それでも震度5~6という、今まで体験したことのない揺れを経験して、焦りました。

親戚の家は壁にヒビが入り、我が家の家具もいくつか壊れてしまい、「何かを破壊する地震」というものを人生で最も身近で目撃したなどと言ったら、大袈裟でしょうか。ただ、物が壊れるくらいならまだいいほうだと、そう思わずにはいられません。

私は祖母と同居しているのですが、団地住まいなので階段を下りて行かなければ逃げられません。もしも建物が倒壊する程の地震だったならば、足腰が弱い為に素早く動けない祖母を抱えた私は共に逃げ切れたでしょうか。

置き去りにして身一つで逃げるしか生き残れない状況になったら…などと、想像もしたくない事を考えてしまう日もありました。自身にとって実際の被害こそ軽微ではありましたが、それでも実体験というのは強烈な印象を植えつけられます。あれ以上の被害を被るのはとても恐ろしいです。

日頃から対策を色々と考えてみていますが、いずれも完璧と思えるまでには至りません。もっと大きな視点、つまり住む場所や建物から考えていかなければ、より大きな地震には耐えられないのではないかと切に思います。

●●愛知県に住んでいて、東日本大震災の直接の被害を受けたわけではありませんが、かなりの間接的な被害を被りました。地震直後、夜勤ありの仕事をしており、会社に行こうとして車を走らせていたのですが、ラジオではなくCDを聞いていました。途中、なにやら渋滞の様子がおかしく、何があったのか分かりませんでした。

道路と並行して東海道本線の鉄道があり、貨物列車がものすごく遅い速度で運行していましたので、何かあったのかと思い、ラジオに切り替えました。そこで初めて地震があったのだと気づきました。

その後、仕事先も製造に使う材料の調達ができず、会社が休みになったり、たいしたことではありませんが色々と普段と違った生活を余儀なくされました。この一軒からは地震に対する意識も変わりまして、防災対策用の手回し発電ラジオを購入したり、防災関連の非常用品を買い揃える様になりました。

●●先の大震災からあまり日が経っていない時期に、静岡県辺りが震源の地震がありました。笑われると思いますが、私が住んでいる地域の震度は3。

それでも、東海地震で甚大な被害が出ると言われている地域なだけに「人生が終わりかも…」とも思いました。加えて、不思議と震度2程度の地震しかそれまでは経験をしたことがなかったので、あれほどの揺れでも、ただただ恐怖でした。

次の日に早速、避難袋の用意をしました。すぐに安全に避難ができるように靴もベットの下に確保しました。今でも季節に応じて着替えの入れ替えや飲料水の期限の確認も行っています。まだまだ足りない物だらけですが…。

今では地震がキッカケで市が運営している外国人の方向けの災害時の通訳ボランティアにも登録しており、機会がある毎に訓練を受けています。災害がないことに越したことはありませんが、万が一の時のための準備に備えています。

あの時の地震は本当に怖かったですが、経験しなかったら恐らく何も対処していない自分がいたはずです。なので、感謝はできませんが、いつ起きてもおかしくない災害に気づいたという、この事実だけは得たものだと思っています。

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